from : ねこかます
最近、麿白先生とだいたい一緒にいる曉璘。
時雉や参瑚とでなく麿白先生というのは、互いに珍妙な性格というのは置いておいても、やはり毛色が
同じ=親猫や兄弟猫を思い出すからみたいな要素もあるのかなと思ってます。
参瑚も年下の時雉にたまに甘えるのは、参瑚のカーチャンがキジトラだったというのもあるのかなと。
どれくらいそういう甘えの対象に見るかって所でもあるんでしょうけど。
参瑚の場合は母猫に置いていかれた形でもあるので、やはり甘えたいのかもしれません。
一方、時雉は物心がつく頃にはもう保護してうちで暮らして麿白先生の暴走母性を浴びてたので、愛情の欠落の記憶みたいなのはないのかなと。
以前にも書きましたが、曉璘がタバコの匂いのするリフォーム業者のそばから離れなかったという事があって、おそらく曉璘が愛情を抱いていた飼い主が同じような年格好の喫煙者だったからではないかなと思ってます。
子猫の頃の家族の記憶のほか、そういう愛情の対象が突如消えてしまった場合に、猫はそれを取り戻そうとするのかなと。
膝上でのこういう顔を見るに、たぶんかつてはこんな風に膝上で可愛がられた日々があったんだろうというのは想像に難くありません。
麿白先生の添い寝もそうですね。
愛情に対する欠落感は人間も猫も犬もそれほど変わらず、だからこそ長い歴史で寄り添って生きてきたのだと思います。
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